前回の記事(1)で、人は自分との共通点を想起させるようなものを好きになる、ということを紹介し増した。
人は自分の名前と似ている場所や商品を好きになり、自分と同じ趣味を持った人を好きになるのです。
人がそのような「同じ」ものを好きになる理由は、人には「一つになりたい」という共同意識が備わっているからです。他人と同じ行動をとってコミュニケーションをとることで、「自分は他人と同じだ」という意識を持ちたいのです。
独りになることが恐ろしいからこそ、人は他者との共通点を強く求めるのです。
しかし、多くの人々は「他人と同じになりたい」と思う一方で、「他人とは違う存在になりたい」と思いながら日々を生きています。
同じ学校という集団に所属していても、その中で目立つことで他の学生とは違う存在になりたいと思っているのです。
同じ部活に、同じ職場に所属していたとしても、その中で成果を残すことで何かしら特別な存在になりたいと思っているのです。
そして、その欲求を満たすために人は様々な手段をとって生活をしています。
今回は「一つになりたい」という思いと「特別な存在でいたい」という相反するした思考の中で生きる、矛盾した人間についての話です。
人は特異的な共通点に強く惹かれる
また、オハイオ州立大学の心理学者マリリン・ブルーアーの研究(2)で、人は特異的な共通点を持つものに引き付けられることが分かっています。
例えば、珍しい名前を持っている人は、同じく珍し名前を持っている人に惹かれます。特殊な趣味を持っている人は、同じく特殊な趣味を持っている人惹かれるのです。
人が特異的な共通点に強く惹かれる理由について、マリリン・ブルーアーは以下のように述べています。(3)
私たちには「他者と同化したい(一つになりたい)」という欲求があり、人と繋がり、強く結びつき、コミュニティの一員になりたいと思っている。その一方で、「異化したい(特別な存在になりたい)」という欲求があり、ユニークで、個性的で、他の人とは違う存在になりたいと思っている。
社会で生きていると、この二つの欲求はかなりの頻度で葛藤することになる。特定のグループと強く結びつけばつくほど、異化したいという欲求を満たすことができなくなる。逆に、自分が他人から際立った存在になれば、同化したいという欲求を果たせなくなってしまうのだ。
つまり、私たちは「一つになりたい」という意識と、「特別な存在になりたい」という意識の葛藤のなかで日々を生きているのです。
だからこそ、特異的で少数派のものを持っている人は、同じく特異的で少数派のものを持っている人に強く惹かれるのです。
2つの欲求の葛藤を解消するもっとも簡単な方法
「一つになりたい」という意識と、「特別な存在になりたい」という意識の葛藤を解消するために最も簡単な方法は何でしょうか?
それは「特異的な集団に所属すること」です。
他のグループとは性質が異なる集団に所属することで、「特別な存在になりたい」という欲求を満たすことができます。
そして、集団に所属して同じ時間、価値観、スキル、行動を共有することで「一つになりたい」という欲求を満たすことができるのです。
人は珍しい類似性を共有するような集団に強く愛着を感じるようになりますし、共通点が多いほど愛着が濃くなっていくものなのです。
行動経済学者であるアダム・グラントはこのことについて以下のように述べています。(3)
人は帰属意識と特異意識の両方を与えてくれるような集団に所属することで多くの幸福を感じる。そしてそのような集団に所属していることを誇りに思い、強い愛着を示すとともに、自分が評価されていると感じるのだ。
ユダヤ教の思想に「自分たちは選ばれた存在なのだ」という「選民思想」という思想がありますが、それは自らが特異的な集団に属していることを示すためなのです。
所属している集団の特異性を示すために人は手段を選ばない
そして、自分が所属している集団の特異性を示すためには、人は手段を選びません。
一定数の人々を犠牲にしてまで、自分たちの集団の特異性を示そうとするのです。
かつて学生団体や新興宗教などの集団が、テロのような過激な行為を行った理由はここにあります。
多数の犠牲を出して地下鉄に毒をばらまいたり、大学構内に立てこもったりしたのは、「自分たちの特異性を示したいから」なのです。
そして、国民が戦争を行う理由もこの「特異性を示したい」という欲求で説明することができます。
戦争をするという行為は、基本的に人命を奪う非難されるべき行為です。
しかし国の扇動や、自分たちの国の特異性を示したいがために、国民は平気で他人を殺すようになってしまうのです。
最終的にはかつての日本のように「神風」に頼って無謀な手段をとるようになります。
このように、人は自分が所属している集団の特異性を示すためなら手段を選びません。
たとえそれが人道的に間違っていた行為だとしても、過激な行動をしてしまうものなのです。
そして、たとえ過激な行動を取らなかったとしても、人は自分が所属する集団を特別視します。
自分が所属している部活は特別だ
自分が通っている学校は特別だ
医者の世界は特別だ
医療に従事する人間は特別だ
研究活動を行う人間は特別だ
と、このように、「自分は特別だ」という思いを抱きながら日々を生きているのです。
そして自分は特別だという思いがあるからこそ、人は他者を見下し、けなします。
人を見下すことで、自らの特別性を示したいのです。
この世に生まれて、多くの矛盾をはらんで生きているはずなのに、自己の中に存在する矛盾を無視して他者を迫害するのです。
いじめ、家庭内の暴力、職場でのハラスメント
全ては人間の「特別になりたい」という欲求の表れなのです。
自分が所属する集団の特異性や、自分の能力の高さを誇示するような人間は、私から言わせれば
「自分の欲求に素直になっている一般的な人間の知能と皮をかぶったサル」
です。(過激な表現申し訳ありません。一応謝っておきます。)
「人は自分が所属する集団の特異性を表現したがり、自分の特異性も無意識に誇示したくなる」
この言葉で、自分が特異性を誇示していないかどうかを一度考えてみると面白いかもしれませんね。
参考文献
(2)The importance of being we: human nature and intergroup relations.
(3)